また仕事を休まなければならないほどの体調不良です。しかも2日も。サボった、と言われているかもしれませんが「精神疾患に対して理解のない人々の立場からだとそのように見える」という話であって、当の本人は深刻な状態。正当な病欠であるということを強く主張させて欲しいです。
がんばって起きようにも身体は動いてくれるはずもなく、NHKの朝ドラが終わる頃には出勤を断念。それなのに、電話をかけてお休みすることを受理してもらうと、なぜか身体がスッと軽くなる。とても不思議です。
初日は桐野夏生著『日没』を読んで過ごしました。「鬱症状が酷い時は読書ができない」という話は世間一般的に有名な話で、私もその例から漏れることはなく何もできません。ただ、今回は昼過ぎから本の内容が頭の中に入ってくるようになっていました。こういう時は、本の内容が体調と合致していたら読めるようです。都合がいい病気、と罵られそうです。読書感想文はまたどこかで(書かないかもしれませんが)
さすがに2日も続けて休むわけにもいかないので仕事着には着替えたのですが、玄関から出ようにも出られなくなりました。玄関までの数メートルが大冒険。あとは勢いで玄関から飛び出すだけだというのに、なかなか気が進みませんでした。結局、この日も体調不良でお休みさせてもらうことに。やれやれ。
そのまま人をダメにするソファでダラダラし、気持ちが外に向き始めた10時頃、せっかく着替えたのだし…と、外出してみました。きれいな青色のグラデーションがかかっていました。冬の空気って良いですよね。このまま散歩することに。そして散歩しながら「水族館にでも行くか」と思い立ちました。クラゲに力を入れるようになってから機会を伺っていたことですし、平日なら混雑もしていないでしょうから。
ということで到着。チケット売り場の女性の「おひとり様ですか」というセリフだけでも心臓に刺さるというのに、加えて怪訝な眼差しを向けられたことが脳裏に焼き付いています。平日の朝、本来なら働いているはずの人間がゆっくりとした足取りでスーツ姿でやって来たら誰でも不審な気持ちも抱いてしまうことでしょうね。鱧の湯引き食べたい。
オオサンショウウオ…体長150cmに対して重さ30kgというのは意外と軽い。この立て看板が見られるのは、この時期特有のことだと思うので、言葉には気をつけなければなりませんが、少し得した気分ではあります。
息継ぎをしなければならないのに、3層…4層…と重なっていて大丈夫なのだろうか。苦しくないのだろうか。大丈夫なのでしょうけど。
オオサンショウウオのように、まったりとした動きをする生物はずっと眺めていられます。ほとんど動かないのですが、たまに口を大きく開いたり、息継ぎするために水面から顔を出したり。このフロアだけで小1時間くらい使っていました。
魚類は誤解するのでしょうか。言外の意味で「疑似餌にかかる」を誤解と表現できそうですが、人間の主観的バイアスがかかっているような気もします。言葉、即ち言語による誤解だとすれば、魚類は言語を持たないために誤解しようにもできないという結論に到るはずです。しかし、彼らが「人間の感知できないレヴェルでコミュニケーションしている」と仮定したら、誤解をしていることになるかもしれません。真実はいかに。
そういえば、科学雑誌”Nature”の特集で「生物が海から生まれた」という説が部分的に否定されていました。ごく最近の話です。
簡単に要約すると、生命にとって水は欠かせない一方で、その生命の誕生に欠かせない物質は、それが安定していない時期は水によって分解されるくらい弱いのだとか。とても神秘的です。
本日の目当てはクラゲです。ここでボーッとするために来たと言っても過言ではありません。多種多様なクラゲたちを飼育・展示しています。
展示されていないクラゲもありました。年パス買おうかな、と考えた瞬間でした。そう毎度のように行けないので買いませんでしたが、年2回の来館で元が取れてしまうので、採算が取れているのか心配です。
京都水族館は、生き物以外にも魅力が詰まっているように思います。水槽に書かれた詩もその1つですし、一定の距離を保ってもらうための立て看板にも豊富な種類があります。よく観察してみると展示している生き物をモチーフにしたデザインの案内板、飼育員による漫画、LINEを利用したクイズや診断、カフェや物販にも力が入っていて、とても戦略的だなと思いました。
結局、閉館ギリギリまで居座ってしまうことになろうとは思いもしませんでした。帰りにカフェでもと思っていましたが、混雑してきたので退館しました。パンでも買って家でゆっくりすることにしました。進々堂のフレンチトーストが好きで、京都に来てからというものの、コレばかり買っているように思います。甘いパンと苦いコーヒーの相性は抜群。年に数回くらいは許されたいですね、こういうの。