a.k.a.Sakaki

赤坂さかきの旅路

言語の役割:覚書

人間は関係性の中に存在している。より厳密に言えば、存在すること自体、関係することに他ならない。人間は、自分と自分をとりまく環境との関係を示す目的で言語を用いる。この意味においては、音楽や絵画のようなおよそ言語と無関係に見える行為も、すべて、その本質部分において、言語と同質の機能を有していると言える。

 関係性を示すとは、即ち、自らを客体として認識することであり、このために人間に与えられた最も有効な手段が、言語である。Parain (1942) *1 は、「認識への欲求こそは、とりもなおさずわれわれに言語活動をもたらす当のものであり、そしてこれが、論理的存在としての、つまり言語を賦与された存在としての我々の状態が我々に課す法則である」と述べ、我々の持つ認識への本然的指向性を指摘している。この観点から規定すれば、言語は、思考という人間存在の抽象的な世界と関係性の提示という具体的行為とを結ぶ無形的で可塑的な実体であると言える。

 関係性の中に生きるという意味では、人間も人間以外の(無)生物も同じ条件下にある。ただ、人間以外の存在は人間の言葉ほどに精巧な自己表現手段を持たないか、持っている場合でもそれが極めて限られたものであるため、人間はその背後に存在するかもしれない認識行為を明確に感知することができない。しかし、(人間にとって)十全な自己表現を持たぬことが、そのものの存在価値を減ずるものでもなければ、認識行為の存在を否定するものでもない。何故なら、人間以外のあらゆる(無)生物に「意味」を見出しているのは人間に他ならないからである。物言わぬものに語らせ、動かぬ存在を移動せしめるのは、すべて人間の仕業である。あらゆる(無)生物は、独自の世界の存在であり、それぞれがそれぞれの環境との間に必要かつ十分な関係を見出している。換言すれば、人間に関わるあらゆるものが人間の世界の存在であるのと同様に、獣を取り巻く全てのものは獣の世界に帰属する。即ち、人間は、言語の助けを借りながら人間の世界を認識し、あらゆる対象物に主観的意味を付加しているに過ぎないのである。

 このように考えると、言語の持つ役割は、ただ単に意思伝達の道具というだけでなく、次のLeech (1974: 28)*2 の見解にも見られるように、環境を解釈し、自らの意識世界を構築する手段でもあるとする考えが十分に説得力を帯びてくる。

例えば、我々が自国語の音韻体系を習得するということは、共通な言語社会的基盤に立って、各自に相応しい変形を加えながら自国語特有の音の世界に適応していく過程と考えることができる。

 Leechの言葉を援用すれば、我々は、自身が置かれた環境(生活空間)を自国語の音韻体系という鋳型にはめることによって具体的なものに形作っているのである。この現象は、社会的レベルにおいても観察されるが、個人的レベルでは一層具体性を増してくる。伝達行為に例を取れば、Messageの持つ意味のうち個人的な意味、つまり、言語的/辞書的意味と文化的/社会的意味の背後に存在する経験的意味は、Messageの送り手(addresser)と受けて(addressee)の間で微妙な相違を見せる。Lado (1961: 5-6) *3は、個人的意味を言語体系の周辺的存在として措定しているが、これは言語の伝達という機能に焦点を当てた解釈であり、関係性を提示するという機能に着目すれば、個人的意味は、辞書的意味と文化的意味に重ねられた個人的解釈としてこの機能における中心的役割を果たすことになる。

*1:“Recherches sur la nature et la fonction du langage”

*2:“Semantics”

*3:“Language Testing”