a.k.a.Sakaki

赤坂さかきの旅路

受験のための英語学習について

日本の英語教育は「受験のための英語学習」に振り回されている。入学試験と英語の関係が強固なものにある理由がどうしてなのかと言われると、正直なところ私には分からない。言語学習には多大な努力と時間が必要であること、そして成果がなかなか出にくいなど、学習の出口が見えない。非常に長いトンネルの中を彷徨い続けなければならない。

 他にも、学んだ英語を使う場所がないということも理由の一つとして考えられる。ジーンズを履いて出かけ、ハンバーガーを食べながらコーラを飲む、などアメリカ型の社会、民主主義教育が浸透する中で、英語への憧れもそれを学びたいという気持ちもあったのだけれども、学んだ先に何も見えないのでは、普通の人は学習の意欲は途端に消えてしまう。

 受験英語はこのような教師と生徒の気持ちが合致し、自然に行き着いた共通の出口だったのではないか。試験には評価がついてくる。そのため、入学試験のための英語学習は互いにとって明確な目標になり、強力な動機付けになる。受験英語は、英語を身につけるという目的で学ぶものではないため、結果が見えてこないのは当然である。

 「受験英語」は存在しない。「受験英語」は英語を受験の目的で教え、学ぶことを意味している。この考えは、英語学習の本筋である「英語は英語として学習を行うということ」に軌道修正を加えてあげれば解決する問題であるはずである。しかし、厄介なことは、「受験英語」は受験用の特別な指導法と学習法を意味している、という考えを持っている人達がいるということである。

 指導法、学習法があるということは、ただの一つの言語に過ぎない英語を受験用に加工して扱おうとするということである。この考えに立つ人は、言語学習よりも、入学試験の方が大切だと思っている。そして、彼らは試験に合格する力が英語力だと思っている。単語も文法も、決まりきった言い回しの類も、全てのものが受験を中心に考えられている。受験英語と実践的な英語を対立的に考え、本を読むなどのような英語の力では、試験に合格できないと信じて疑わない。

 一方、これを非難する人も「受験英語」と実践的な英語を、どちらか一方に絞って考えるということをしているようでは、本質的には同類である。受験英語ばかりやるから英語を話すことができないと考えているとすれば、いつまでたってもこの問題の解決の糸口を掴むことすらできない。英会話ができても試験に合格しなければ意味がないと考えている人は大勢いるため、いくら受験英語を非難しても効き目はない。現実問題、会話の上達に欠かせない発音の訓練が、中学校から高等学校に上がるにつれて、消えていっている。

 この受験英語という妄信を払拭する方法は一つある。それは、実践的な英語の力を身につけた上で試験に臨むということである。英語で文章を書くことができる、英字新聞を読むことができる、学術的な討論ができる、こういったことができる人は英語力が高いということである。よほどの試験でない限りは、この力を持っている人が試験に落ちるということは考え難い。もし、落ちるようなことがあれば、その人の英語の力を見抜くことができなかった試験の方が悪いのである。受験勉強を英語学習における最上の方法としてとらえている人達がいるというのではなく、「このように勉強するべき」と勝手に決め付けている人がいるために、この「受験英語」は生き続ける。もう一度、英語を学習する目的を見定めるべきではないであろうか。

 現在の学校では、生徒は知識を詰め込むことが「勉強」することだと認識している現状である。彼らにとっての勉強の目的とは大学入学のために「受験に合格すること」であり、そのためには膨大な知識が必要であると様々な授業を通して教えられている。そのため、いちいち「考える」ことに無駄に時間を使うより、機械的な暗記でいかに多くの量の記憶を保持できるかに躍起になっている。大手の予備校、学校の先生の一部にまで、英語は暗記科目だと教えている人がいる。そういう勉強は決まって面白くない。

 「受験英語」とは、英語の力不足を、受験技術で補おうとする、一種の姑息な対応法である。試験によく出る単語、重要構文などの発想は、試験のために英語を学習すればどうしてもそのような考えに向かってしまう。その結果、英語は単語、構文ごとに解体されていく。その解体したものを復元できるのであれば問題はないが、そのような英語の力があるのであれば、最初から解体などしない。やむを得ず分解したものを丸暗記して受験に臨む。それによっての安心はあるかもしれないが、それが実践的な英語の力につながらないということは「受験英語」を唱えている人達自身が証明している。試験のために英語を勉強するという心情は理解できる。しかし、それによって勉強の中身までもが試験に振り回されるというのでは本末転倒である。大学という次のステージで学習することと、現在の学習過程がまるで結びついていない。

 自身その教育方針を定めているのだが、どこに居ても少数派の意見のようなのである。今年も職員室では肩身の狭い思いをしている。軸となる私がブレてしまってはならないのだが、精神的に折れてしまいそうな日々である。そんな日々が、日常がまた始まろうとしている。というよりも、すでに始まっている。そんな「受験勉強」と「受験生」と「教員」に私のほうが振り回されてしまっている。「受験のための勉強をさせ(てくれ)ない教師は悪い教師」としてみなされる。

 英語を勉強していれば大丈夫…言葉ではなく授業内容で示せるように努力しなければなるまい。人工知能やコンピュータの精度、そしてオンライン授業専用プラットフォームの利便性などが向上した未来を見据えながら。