a.k.a.Sakaki

赤坂さかきの旅路

研修レポート

入職して間もない頃に課された,教育に関するレポートを発掘した(…というよりも,きちんとフォルダ分けするだけして,提出〆切日以来,全く開かなかった)。この機会にメモ程度に残しておこうと思う。字数制限がなければいくらでも書けるトピックであったが短めの文章である。

課題:自己教育力について論じなさい。

 自己教育力とは、自己を教育する力である。自身の目標を設定し、それを意識しながら目標に向かって自らをコントロールし、成長し続けようとする力を指す。この「自己教育力」という概念は、近年、その言葉そのものが取り上げられるようになってからは新しいが、教育思想史における「産婆術」や「自助への援助」のように、基礎的な考え方は古くから存在している。例えば、デューイ(1955)は、その著書『民主主義と教育』の中で、教育を「自己更新」と換言し、それを継続して行うことの重要性を説いている。また、1972 年に開催された第17 回ユネスコ総会において、教育開発国際委員会が提出したフォール報告書(=未来の学習)の中でも、教育改善および改革の柱として「自己学習」が取り上げられている。このように、中央教育審議会が「自己教育力」という語を打ち出すよりもはるか以前から、教育の本質が学習者の自発性にあることが現在に至るまで繰り返し主張され続けてきたことが分かる。

 その一方で、従来の教育は、学習者の自発性によって行われることが元より薄れてしまったと考えなければならない。紀元前から繰り返し主張され続けてきた思想に倣って「自己教育力」という語を新たに打ち出さざるを得なかったことがその最たる根拠である。中央教育審議会は、この自己教育力を「学習への意欲」と「学習の仕方の習得」と定義しており、これからの社会状況に適応できる能力の育成を重視している。ところが、学校を取り巻くその社会状況は、企業のニーズに応える教育や、知識量で勝敗が決まる受験教育が加熱化の一方を辿っている。絶えず変動する企業のニーズに合わせて学習すれば、学校で勉強してきたことが唐突に必要なくなってしまう可能性がある。また、試験の解法・解説の学習や暗記学習は、必ずしも学生の知的好奇心を刺激するものではないはずである。特に後者は、受験が終わってしまえば活用できない知識へと転じてしまうだろう。無論、これらの学習が全くの無駄であるとは断言しないが、少なくとも教員は、教育本来の目的であるはずの「人格の形成」を欠いた指導をしてはならない。我々は、「土台となる能力を養成すれば、状況に合わせて対応できる人間の育成が可能である」という発想で日々の指導に当たる必要があるだろう。

課題:美術科における担当教科の位置づけ

 知識の限界は、世界の限界である。世界の限界は、とりもなおさず、表現の限界であるとも換言できよう。この場合、世界とは、個々の眼を通して観察・構築される時空間を意味している。美術科における外国語教育の位置づけは、これを立体的に拡張するための思考力と言語運用能力を養うことを前提に行われなければなるまい。即ち、美術教育が生徒の着想と、絵画技法や造形手段のような技術面とを結びつけるのに貢献するのに対して、外国語教育は、そういった作品に込める思想や概念を創造する、謂わば、制作における核の形成に資すると云える。
 無論、美術教育が作品の心臓となる教養を深めることに無関係であるという意味ではない。制作を通して育まれる知識も存在する。しかし、その美術教育のみを通して培われる知識には限りがある。日常、生活の中で呼吸する見聞を広く手に入れるためには言語を、とりわけ、母語だけでなく外国語を学習する必要がある。このように、生徒の世界観の広範化という意味において、外国語教育は美術科に対し一助を呈しているのである。