快楽のためでも実生活の必要のためでもないような知識が最初に発見されたのは、人々がゆとりに恵まれた地域においてであった。
上の引用は、アリストテレスの著書のひとつである『形而上学』の中で述べられたものである。
快楽のためでも実生活のためでもない知識とは、数学や哲学に代表される学問的知識と考えて異論を呈する者は少ないはずである。つまり、学問が発展するためには、人々に日々の生活に追われない時間的余裕、経済的余裕、そして余暇が必要だというのだ。
この余暇を表すギリシャ語 ‘scholē’ は、中世ヨーロッパに入ると ‘schola’ というラテン語に入ってくる。これは「スコラ哲学」という言葉によって知識人においては親しみのある語だと思われるが、もとは「修道院の附属学校」を意味しており、それが転じて今日の「スクール (school)」の語源となっている。
即ち、学校の語源を辿っていくと、余暇や「ゆとり」という言葉に行き着くのであり、学問は人々が世俗的関心から離れた自由な時間を持つことによって、おのずから発展すると考えられていたのである(野家啓一 著『科学哲学の招待』より)。
その一方で、現代社会は、どこかそのような余裕を失っているように思える。どこか狂っていると言っても過言ではなかろう。質の良い教育を行うことのできる環境ではない。国や組織には冷静に考えてもらいたい。