豊富な知識は、退屈から身を護る盾になる。我々の身の回りで、意識しないまま耳に入れる単語は、言うまでもなく、その全てに何かしらの由来がある。ひとつ例を挙げれば、‘apricot’ は、英語の ‘precocious’ を意味しており、熟した桃とはまた違う、その味の甘酸っぱさを彷彿させる。これを知ってからというものの、このアプリコットをジャムなどで味わう時には必ずこの意味を考えるようになっている。
世の中は「役に立つ」と「役に立たない」という区別で知識を分類するきらいがある。また、それに対する返答も「何が役に立つか分からない」という同語反復である。事実、いつ何が役に立つか分からないのが世の中であり教育でもあるのだが、知識というのは、退屈を紛らわせるだけのものであると考えている。 何の役にも立たないが、宇宙の話や巨大生物の話を聞くとワクワクしないものだろうか。勉強というのは、本来、そういうものなのだ。やりたい人はやればいいし、やりたくないのであればやらなくても良い。
現代では、「やりたくない」と考える人々の方が圧倒的多数である。大学に合格するため、入社試験に合格するため…のように、嫌々、何の脈絡もなく暗記するだけで終わることが多い。しかし、そういった試験勉強は面白くない。面白くないのは教師の責任もあるが、学習者側が「教師の努力に応える」責任を果たせていない場合も考えられる。
ゲームやアニメのような娯楽に夢中になる子供が多くなるのにも納得できる。ゲームやアニメも面白いものであるが、授業は、せめて、学校にいなければ知る機会を得られないような、子供が心からワクワクするような知的な面白さも備えたものであって欲しい。それが難しければ、1日につき、何か一つでも「勉強になった」と思われるような楽しい時間にしたいものである。
...まあ、学ぶ側の協力が得られないようでは教育は成立しないものである。理想を振り回さないことだ。教師になるよりも前から、その辺りは諦めている。いつの時代も、学校は勉強を教える場所ではなく、生活を教える場なのだから。500人の子どもが居れば、そのうち1人の糧になっていれば、それで。