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Orwell の危機意識

経験は、観念世界への入口である。作品の持つ空間は、作家の具体的な生活の場から紡ぎ出される思索と感覚という縦横の糸で編み上げられている。そこには、現実との間に絶えず一定の「意識的距離」が保たれているが、ひとたびこの距離、謂わば経験と観念の落差が失われると、本来作品の有している "fictious" な空間も同時に失われてしまう。

 これは、自己の経験にどのような形式を与えるかという「表現」の問題に還元されるが、それはまた、Orwell のように20世紀前半という極めて振幅の大きい時代にあった作家にとっては、常に自らの「生」を脅かす切実な問題でもあった。

 Orwell は、自分の作家生活を回顧した一文 "Why I Write" において、作家が作品を生み出す動機として、 sheer egoizm, aesthetic enthusiasm, historical impulse, political purpose の四つを示している。平和な時代であれば、第四の動機に駆られることがなかったかもしれぬ彼は、植民地、下層社会、戦争にその身を置くことによって得た特異体験の中に「虐げられた人々」の存在を知り、反権力的な知識人としてその告発を続けながら必然的に政治に関わっていた。

 「作家は、少なくとも我々の生きているような激しく革命的な時代に属している作家は、何らかの形で感情的態度、政治的判断を示さない訳にはいかない」という考えは、謂わば、彼の信念でもあったが、この明確な自己主張は多く天性の鋭い批評眼に託されるところとなった。

 こうして彼は、評論というジャンルにおいて、より自由な空間を発見したのであるが、それは、経験と表現の狭間で自己を屈折させることを不得手としたこの作家の、謂わば、最後の拠り所であったと考えられる。

 Orwell の眼は、政治、階級制度、貧困という一連の社会現象に向けられたが、こうした社会的次元の問題は、その日常性故に、意識する者をその暗部に誘い込まずにはおかない。

 華やかなヴィクトリア朝の残照の中で幼年期を過ごした彼は、それまで自分を支えてくれていた基盤が、創造が破壊に通じる時代を迎えて漸く崩れ去るのを鋭敏に感じ取っていた。創造が破壊に繋がる不幸な時代とは、即ち、秩序が渾沌を求める不安の時ではあるが、それは同時に「新生」に対する無言の約束でもある。

 あらゆる時代は、絶えず、ある「高さ」を持って存在する。この観念を支えているのは「一定の水準からの距離」感である。つまり「高さ」は「地上」からの距離によって感じられる性質のものであり、それは普通、上昇の途上においては感覚されにくい。

 しかし、ひとたび上昇が停止すると、獲得された「高さ」は不安となって意識されるようになる。こうして「高い」時代は、"decadant" な気分の中に絶えず「落下」の恐怖を背負っており、「低い」時代が育む夢(=上昇へのエネルギー)との間に鮮やかなコントラストを示す。

 このような上昇と下降は、丁度、「生」が「死」を措定して成り立っているように、「静止」を前提とする運動性に他ならない。この「静止」は可能性と云ってもよい。不安や希望は、実現の可能性を見せる限り不安と希望であり続けることができる。落下の恐怖を知らぬ無限の上昇は、最早上昇ではなく、そこでは下降の意識を背負って初めて生じる軽やかな陶酔感も失われている。

 Orwel が自らの時代に対して抱いていた危機感は、躍動が静止に向かう時のそれであった。それは確かに、意識したが最後、到底払拭し難い危惧であったに相違ないが、そこには破壊の後に訪れる新生への期待が、ある種の安らぎとなって漂っていることも否定できない。

 彼は、この安堵感を、極限の人々を描く中で執拗に追い求めた人間としての "decency" に見出した。こうした姿勢には「人間の精神の犯し難い空間」とも形容すべき「自由な存在感」に寄せる全幅の信頼が窺われるのである。

 凡そ如何なる存在も他者の意識の上にその輪郭を形づくっている。この相対の中に、仮に絶対を探るとすれば、それは畢竟、各々の存在が求めあう距離的「調和」であろう。そうしてこの全体の調和は、それを見抜くバランスのよい精神に支えられた観念世界であり、それは、普遍的であると同時に極めてパーソナルな空間であると云えよう。

 Orwell の見せた不安は、即ち、このような調和を求める心に意識された歪であり傷口であった。それは、また、物と物の距離が異様に狭められることによって生じる強迫観念であり、歴史的現在への絶え間ない没頭によってしか癒すことのできぬ傷であった。彼は、この失われたバランスを取り戻すことによって真の調和が得られることを確信していたが、同時に、困乱の時代が人々の魂の奥深くに及ぼしたこの傷は容易に恢復せぬ性質のものであることも充分認識していたのである。

It is as though in the space of ten years we had slid back into the Stone Age.  Human types supposedly extinct for centuries, the dancing dervish, the robber chieftain, the Grand Inquisitor, have suddenly reappeared, not as inmates of lunatic asylums, but as the masters of the world.  Mechanization and a collective economy seemingly aren't enough.  By themselves they lead merely to the nightmare we are now enduring :  endless war and endless underfeeding for the sake of war, slave populations toiling behind barbed wire, women dragged shrieking to the block, corklined cellars where the executioner blows your brain out from behind.  So it appears that amputation of the soul "isn't" just a simple surgical job, like having your appendix out.  The wound has a tendency to go spetic. (Notes on the Way, "CEJL", 2, 15-16)

 こうした危機意識は、特に "1984" において、未来を「愚かに増幅させた現在」として描いている点にも窺える。そうしてこの極めて閉鎖的な歴史観は、T. Hopkinson の指摘(pp.6-7)を待つまでもなく「現在」への異常とも云える没頭、さらにはあらゆる現在的存在の根幹としての「自己」への没頭が生む必然であった。

 Orwell は、こうした意識に対して看過できぬ影響を与えたといわれるH. G. Wells について多くを書き残している。当時、この気質的には19世紀に属するとされる自由な預言者が与えた夢は、ヒトラーの抬頭に象徴される全体主義の潮流の中で漸く現実のものとなりつつあった。

 歴史は「未来を空想する精神が過去を懐かしむ心を克服することによって」重ねられるという Wells のロマンチックな史観は、Orwell の次の言葉に適切に表現されている。

If one looks through nearly any book that he (=Wells) has written in the last forty years one finds the same idea constantly recurring :  the supoosed antithesis between the man of science who is working towards a planned World State and the reactionary who is trying to restore a disorderly past.  In novels, Utopias, essays, films, pamphlets, the antithesis crops up, always more or less the same.  On the one side science, order, progress, internationalism, aeroplanes, steel, concrete, hygiene :  on the other side war, nationalism, religion, monarchy, peasants, Greek professors, poets, horses.  History as he sees it is a series of victories won by the scientific man over the romantic man.  (Wells, Hitler and the World States, "CEJL", 2, 142)

 Orwell の視野にとらえられたこのアンチテーゼは、しかし、彼自身が繰り返し語る円環的世界観と同質のものではない。次の一節は、明らかに "Animal Farm" を念頭に綴られているが、その背後に沈潜している歴史観は、彼の全ての作品の根底に根付いている思想でもある。

Obviously, human beings have impulses which are not selfish.  Man, therefore, is an animal that can act morally when he acts as an individual, but becomes unmoral when he acts collectively.  But even this generalization only holds good for the higher groups.  The masses, it seems, have vague aspirations towards liberty and human brotherhood, which are easily played upon by power-hungry individuals or minorities.  So that history consists of a series of swindles, in which the masses are first lured into revolt by the promise of Utopia, and then, when they have done their job, enslaved over again by new masters. (James Burnham and the Managerial Revolution, "CEJL", 4, 177)

 科学的進歩とその可能性のうちにユートピアを描く Wells の歴史観を仮に "spiral" と形容するならば、ユートピアが幻想であり続ける Orwell のそれは、明らかに "circular" なイメージに包まれている。それは、嫌悪すべき現実との戦いが結末において "status quo" への回帰となることによって強調される不変性であり、「自然は、時計の振り子のように絶えず "swing back" することにより安定を保つ」という Orwell の平衡感覚である。

 "Animal Farm" の延長線上にある "1984" は、固より、他の初期の作品もこの点において全て同一の方向性を示している。即ち、Orwell は、Wells 的ユートピアの持つ「緩やかな旋回の中での上昇感」の背後に潜む「落下」の恐怖を逸早く見据えていたのである。