a.k.a.Sakaki

赤坂さかきの旅路

近況:動物ポートレート練習

「動物ポートレート」というタイトルが掲げられていますが、本当は野鳥撮影に赴くつもりでいました。前回、オオルリの撮影を試みた時に「レンズエラー」が(一時的に)表示されたので、念を入れて出発前に動作テストをしました。

まだ1ヶ月しか経っていないのに…

すると、今回は復旧することはありませんでした。別のレンズを付け替えてみると動くため、レンズの故障であると断定できました。

 修理に持っていったところ、3~4週間かかるとのことで、夏鳥の季節に残念ではありますが、今季はオオルリやサンコウチョウを断念せざるを得ない状況に。個人間取引ではなく、信頼できる家電量販店で買っておくものですね(無料修理保証の範疇とのこと)

本編

ということで、今回は 150-600mm のレンズ無しで動物ポートレートの撮影に臨んだ時の記事です。XC50-230mm F4.5-6.7 OIS と XF56mm F1.2 R WR で背景も使いながらの絵作りを練習しました。

キンカチョウ

野鳥撮影は難しいかもしれませんが、彼らの警戒心が緩く、かつ、近くにいればキットレンズの望遠でも十分なようです。フルサイズ換算だと 230mm の 1.5 倍なので、約 350mm の焦点距離となります。

綱引き大会

さらにトリミングすれば 400mm に達するため「SNS の投稿が目的であれば全く問題はない」という感想です。この写真もすぐ近くに寄って来てくれていたために撮らせてもらえたものです。意外と楽しめますね。

ルリコンゴウインコ

以前撮影したヒワコンゴウインコの仲間、ルリコンゴウインコです。インコは手乗りサイズのイメージですが、冠羽がないのでオウムではなくインコ。やっぱり噛まれると指が飛んでいきそうです。

ここからは動物撮影。超望遠レンズだと顔まで寄れるのですが、標準の望遠レンズだとここまでが限界。それでも、サイの目線に合わせて前ボケを入れることで作品っぽく仕上がります。もう少し寄りたかったですね。

トリミングで寄るとこんな感じ。背景が整理できていなかったり、がんばって寄っても寄りきれなかった時はモノトーンに逃げていくとそれっぽくなる気がしました。シマウマの写真、ちょっと良い雰囲気では。

シマリス

ちょこまか動き回るシマリスも、近付くことができる環境下であればご覧の通りです。いい顔ですが、目線が欲しかったですね。

伝われ

旧くからインターネットに生きている人であれば、インターネット・ミームとなってしまっている「笹食ってる場合じゃねえ!」は知っているはず。そんなシマリスが撮れてしまいました。

目線をもらえませんでした

この時は XF56mm F1.2 R WR を使っていましたが、目線をもらえなかったこと以外ではバッチリでした。あまりトリミングを必要としませんでしたし、背景もしっかりとボケてくれています。やっぱり良いレンズですね。

入浴中

最近、世間を騒がせているクマですが、動物園にいるツキノワグマは可愛いものですね。この日はサウナにいるかのような暑さでした。水風呂に入ってこの表情です。

「整って」います

「ヒトが着ぐるみの中にでも入っているのか」と思えてくるほど人間味に溢れていました。サウナと水風呂で完全に整っています。

チンパンジー

ヒトと言えば、チンパンジーに長らく会っていませんでした。言語学ではよくピグミーチンパンジーの話題が出るのですが、その姿はあまり観察することをしませんでした。人間に最も近いと言われている霊長類。やっぱり類人猿は自然界で出会うとチビってしまいそうです(参考

さて、そのチンパンジーの檻の隣で見かけた「入居"猿"募集中」のポスターを見て考えていたことを末尾に付して記事を締めたいと思います。

ご近所のオナガザル科の方に教えてあげてください

動物園は人間社会によく似ています。これは、捕らえて来た動物を、人工的環境と規則的な給餌とにより野生から遊離し、動く標本として一般に見せる、啓蒙を兼ねた娯楽施設です(新明解国語辞典より引用)

 人間にはある程度の自由が認められているため、動物園とは全く異なるように見えますが、こういった檻からは(考え過ぎですが)どうしても「会社」や「学校」を彷彿してしまいます。

 それは「自由と引き換えに身の安全が確保されている」という点です。人間は、関係性の中に生きています。言い換えると、存在することそのものが関係することを意味しています。孤独に生きているつもりでも社会とは切り離せないものです(覚書

 その意味では、現在の「フリーランス」という働き方も、しばしば「自由な働き方」を象徴するかのように、古今東西、云われている一方で、本当の意味で「自由」を得られているのかを考えるとそうでもないことに気付かされます。

 「会社員」という働き方は、決められた時間(以上)働かなければならない不自由さがありますが、毎日出社することでお金が手に入ります。体調が悪くなった時や急用が入った時でも「年次休暇」の制度によって給与が支払われます。

 仕事に必要な道具の多くも「経費」という形で計上され、法にも守られています。さらに、社会保険完備の企業であれば、給与から差し引かれる社会保険料を半分支払ってくれています。余剰資金を賞与という形で分配してくれる企業もあります。

 この動物園の檻から出て自由になるということは、これらの全てを自分で賄わなければならないことを意味します。狭い檻から逃れようとしても、少しだけ広い檻の中にまた閉じ込められてしまいます。どうやって生活費を工面すれば良いのか見当が付かないのであれば、ひょっとしたら、その檻が狭まっている可能性だってあるのです。

 人間として生きる以上は、この「労働」という檻からは逃れられないことが分かります。嫌味でも悪意でもなんでもないのですが、この檻の中が羨ましくなる瞬間があります。お恥ずかしながら、この日が、このポスターを見た時がその瞬間でした。

 しかし、自身、魅力的に映っているのは「何でも用意してもらえている」という点のみで、檻の中で激務に耐えることではありません。それを楽しいと考えている人もいますが、自分には、それがなぜ楽しいのかを見出だせないまま中年を迎えてしまいました。この点が仕事(契約)を取れない最たる原因なのかもしれません。今の仕事に一生懸命になれていないようです。

 それもそのはずです。結局、この業種を選んだのも「これから伸び代がありそう」という程度のもので、深く自分のキャリアと向き合っていないからです(正直これが面倒)

 ある程度の勉強は積んだつもりでいます。正直、それも楽しんではいました。しかし、一生懸命さで言えば(決して努力をしているわけではありませんが)現在のようにカメラを持って色んなところに移動して写真を撮り、ブログ記事として昇華していることくらいなのではと考えています。

 良い写真を撮るために少し早起きをする、暑い日に重い機材を背負って歩く、同じ場所に通い続ける、SNS に写真を毎日掲載する、編集技術を学ぶ、そういった努力であれば、IT 業界のように常に何かが新しくなる心理的負担や心ない言葉を浴びせられるような心身の健康が脅かされる出来事は減るような気がしています。

 写真界隈に真新しいことがないという意味ではありません。新開発された性能の良い機材や編集ソフトはお金で解決できてしまうものであり、これらのユーザーが努力でなんとかできる部分とは離れています。これらに触れ続けることで自らをアップデートさせるという点は、ここで述べる「新しい」とは異なります。

多くの反応ありがとうございます(Threads

現実的な話、写真家を目指しているわけではありませんが「自分の写真を見てもらいたい」という気持ちが今はどうしても強いようです。多く反応(=共感)がもらえることや、写真撮影をしている方々との交流が何よりも楽しいと感じています。

 そうやって、心の底から「楽しい」と考えていることに全力で向き合ってみるのはどうだろうと考えています。今月から「働いている時間以外を可能な限り写真に費やすこと」を主題に走り切ってみます。

 半年後である年末に何かしら結果が出ないようであれば、その努力の方向性に誤りがあるか、もしくは、これさえも一生懸命になれていないことになります。急に忙しくなってしまって触れなくなっていることも考えられますが、それならそうと生活が安定してくれているので良いだろうと思います。

 ここまで読んでくださりありがとうございました。もちろん「スクロールしただけだよ」という方もありがとうございます。ちょっと思想の強い記事となってしまいましたが、セラピー的な用途としてもブログを書いているので、ご海容いただけますと幸いです(誰も読んでいないか)

 それでは、また。